正月なんでか、神社特集とかを見ながらなんとなく考えてみた。
ずっと違和感があったことなんだけど、縄文土器や土偶の造形フォルムって、現代の神社には、ほぼ皆無なんだよね。たとえば、あのハート形土偶とか。
日本の歴史は古いけど、日本の神話とか、現代神道の歴史は、やっぱり古くないのかなあ。
天地開闢からイザナギイザナミまでのほぼ記述なくお隠れになった神世七代
が、名前だけとはいえ記録には残ってる訳で、なにかしらの王朝があったのだろうと想像はできる。だから、記紀神話以外に、真実があるような気がする。
実際、大化の改新以降、日本は、天皇家と藤原家の王朝なわけで、それ以前の、蘇我氏や物部氏とかは、どこにいったの?って思うわけ。
ただ、それとは別に、現在でも、天皇の三種の神器の中に、八尺瓊勾玉があり、これがどのようなものかはわからないが、勾玉という名前はついてはいる。勾玉は、実は縄文中期にはC字形の勾玉が見られることから、有史以前からの文化が、現役の祭器として存続していることになり、これってすごいことだ。
ちなみに、勾玉って、みんな穴が見える巴型の側面を正面って思ってるけど、あれはあくまでパーツの1カ所であって、おそらくは、勾玉と管玉で作られた首飾が完成形だ。これって火焔土器の口径に似てるってのはどう?
そろそろ米原論を書くと、現代日本の起源は、紀元3世紀、卑弥呼の時代なんじゃないかなあ。
『魏志倭人伝』はだいたいこれくらいの時代なんだけど、倭国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいないとの記述がある。これを鵜呑みにするならば当時の倭国には馬が存在しなかったことになる。逆に、馬が登場する神話の箇所は、これ以降になるはずだ。もっとも、実際には、少数ながらいてもおかしくはないんだけどね。一応、いまんとこ、考古学的に馬文化に関する国内最古の遺物は、箸墓古墳(3世紀中頃)の周壕から出土した木製輪鐙だ。
古事記に記述されている有名な馬の登場シーンとしては、天の岩戸事件の直前のできごと。スサノオノミコトが、アマテラスノミコトが機を織っているところに、皮を剥いだ馬を投げ入れたってやつだ。
247年3月24日夕方に北九州で皆既日食が起っており、これを天の岩戸隠れと結びつける説も多いが、時代的には一致する。
実は、古事記でいうところの倭姫命=魏志倭人伝の卑弥呼=天照大神を祀る巫女 で、限りなく天照大神と同一視。なんじゃないかなあと思っている。
もっというと、これも謎なんだけど、邪馬台国ってかいて、ヤマタイコクって読むよね。
同じ魏志倭人伝にある卑弥呼の後継者の台与のことを、トヨって読むのに・・・。
台をトと読むなら、邪馬台国は、ヤマトコクであり、文献通りに邪馬台国畿内説ですよ。
ただ、成立したのは、3世紀のことなんじゃないかなあ。それまでは、戦国時代みたいなかんじでしょ。
だからといって、漢などの中国に朝貢してたからといっても、それはむこうがそういう風に記録を残しただけであって、
日本語や日本人のDNAの独立性を考えると、中国文化圏とは一応別個の独立した文化圏だったと思う。
ほら、古代中国って、けっして東アジアの覇者じゃなかったじゃん。匈奴におびえてたわけで。
本題に戻すと、そして伊勢神宮だけど、内宮は天照大神をまつり、外宮は豊受大神(トヨ)を祀ってるのは偶然なのかなあ?
伊勢神宮自体、倭姫命が創建したようなもんで、後の斎宮のおおもとともいえる。
また、ヤマトタケルは、倭姫命から、天叢雲剣を授かるが、現在、熱田神宮に封印されてる三種の神器を貸し出してもいいのか?逆にいうと、貸し出せるポジションだったわけである。
その天叢雲剣といえば、出雲神話の八岐大蛇だけど、もしも八岐大蛇が、山の鉄鉱の民であるとしたら、考古学的には、青銅器が日本にもたらされたのはおよそ紀元前2世紀ってされてるので、それ以降の話になる。天叢雲剣が出て来るくらいだから、少なくとも青銅器が伝わった以降でしょう。おそらくは、スサノオノミコト(先述した3世紀の人物とは異なると思う、古事記自体やや時代は前後してそうな気もする)が青銅器の剣を使ってて、天叢雲剣は鉄器、とかってことじゃないかなあ。
いずれにしても、記紀神話の内容は、考古学的にはどんだけさかのぼっても、弥生時代中期以降だし
事実、縄文の造形フォルムは、現代の神道にほぼ残ってない。
そして僕は、縄文時代の宗教を含む思想に興味があって仕方がない。
だって、あんなにおもしろい土偶を生み出してるんだから。
公式サイト→http://www.yoneharakeitaro.com/
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