『アートな記念写真』ってとりあえずいってるけど、なんか新しい造語をしたい。
photographは、直訳すると、光画の方が近いらしいけど、それを写真と訳したセンスがいい。ってことで調べてみると、
1
中国の詩人、杜甫が絵画について詠んだ詩「丹青引」の中に、「その真の姿を写しだす」という意味で、「必逢佳士亦写真」という一説があり、これが、文献に出て来る最初の『写真』である、と。
2
ヨーロッパで、13世紀頃からカメラオブスキュラと呼ばれるピンホールを通って暗い部屋にさかさまに投影されるものが使われはじめる。これが、江戸時代に、日本に輸入され、平賀源内が写真鏡と名づけた。
3
1839年ダゲレオタイプが発明され、1842年にイギリス人のジョン・ハーシェルが、photo(ラテン語で光の意味)+ graph(描く)で、photographという言葉を作った。
4
日本に輸入されたダゲレオタイプが、銀メッキした板を使うことから銀板写真と呼ばれ、そこから、写真という言葉が定着した
ということのようだ。
僕が気になるのは、杜甫の詩。
丹青引 ―贈曹将軍霸― 杜甫
將軍魏武之子孫 於今為庶為青門
英雄割據雖已矣 文采風流今尚存
學書初學衛夫人 但恨無過王右軍
丹青不知老將至 富貴於我如浮雲
開元之中常引見 承恩數上南熏殿
凌煙功臣少顏色 將軍下筆開生面
良相頭上進賢冠 猛將腰間大羽箭
褒公鄂公毛髮動 英姿颯爽猶酣戰
先帝御馬玉花驄 畫工如山貌不同
是日牽來赤墀下 迥立閶闔生長風
詔謂將軍拂絹素 意匠慘淡經營中
斯須九重真龍出 一洗萬古凡馬空
玉花卻在御榻上 榻上庭前屹相向
至尊含笑催賜金 圉人太僕皆惆悵
弟子韓幹早入室 亦能畫馬窮殊相
幹惟畫肉不畫骨 忍使驊騮氣凋喪
將軍畫善蓋有神 偶逢佳士亦寫真
即今漂泊干戈際 屢貌尋常行路人
塗窮反遭俗眼白 世上未有如公貧
但看古來盛名下 終日坎壈纏其身
以下、ネットから拾って来た翻訳。
絵画をうたう
将軍は魏の武帝曹操の子孫だ
現在は庶民だがもともとは名門の出なのだ
英雄割拠した時代はすぎ去ってしまったが
曹氏一門の文学芸術にすぐれた気風はなおつたわっている
書を学んで初め衛夫人の書風を学んだ
王右軍にかなわないのがただ残念だというまでになった
絵画の道に入っては年をとるのも気づかないほどだった
そうした身にとって富や貴い位は空にうかぶ雲のように関係ないものだった
開元の頃にはいつも天子にお目にかかり
その恩寵をうけて何度も南薫殿に参上した
凌煙閣の功臣たちの肖像が年月に色あせていたのが
将軍がそれに筆を加えると生き生きとよみがえった
名宰相が頭上にいただいている進賢冠
勇猛な将軍の腰のあたりの大羽箭
褒国公や鄂国公の毛髪は動いている
その姿は颯爽として戦いのまっただ中からいま来たばかり
先帝の御乗馬の玉花驄は
画工が何人も山のようにたくさん描いたがなかなか似ない
この日赤くぬった階の所までひきつれて来た
はるか彼方宮門に立つとさっと一陣の風がまきおこった
将軍に対して写生するようにとの天子のお言葉があった
構図をいろいろに苦心して考えて工夫していたが
あっという間に宮中にまことの竜馬が出現した
古来描かれて来た平凡な馬の姿なんかさっと洗い去った
玉花驄はいまやかえって天子の腰かけの上の方にいる
腰かけの上の方と庭前の方とそれぞれさっと立って向かいあっている
天子はにっこりとしてほうびの金をやれとおっしゃっている
馬のかかりの役人たちは皆このありさまにびっくりした
将軍の弟子の韓幹は早くから技法を極めていた
そして馬を描いてもまたなかなかみごとなものであった
ただ韓幹の場合はその形を描いてもまだ本当の精神は描けなかった
素晴しい馬が意気あがらずに描かれてしまうのはなんともやりきれない
将軍の描く絵には精神がこもっている
立派な人物の場合にはそれこそ真実の姿をうつし出すだろう
いま戦乱の世にあってあちこちとさすらっているので
しばしば平凡なつまらない行きずりの人を描いている
行きづまって困っている人間は世俗の人からは白眼視される
世間には将軍のように貧しい暮しの人もないようだ
そこに見るものは昔から名声のある芸術家は
志を得ず不遇の境涯を送る運命にまとわりつかれているということだ
七言古詩。成都での作だそうだ。
個人的には、三国志が好きな僕としては、曹操だとか成都っていわれると弱いよね。
いずれにせよ、この詩のこの一節にこそ、写真の神髄をついている。
原文
將軍畫善蓋有神 偶逢佳士亦寫真
翻訳
将軍の描く絵には精神がこもっている
立派な人物の場合にはそれこそ真実の姿をうつし出すだろう
米原敬太郎公式サイト→http://www.yoneharakeitaro.com/
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