2012年11月27日火曜日

【作品制作の裏側】サムネイル



自作を語るなんてことはしたくはないが、聞きたいという人がいるのを無視するのもどうかなあとも思う。なぜ聞いて来るのかなあってことだけど、どうも芸術家は、コンセプトを語るのが、今の流行らしい。芸術にもいろいろあるが、例えば、美術なら、視覚表現は、言語の国境を越えるはずじゃなかったのかと問いたくもなる。
個人的な考えだが、その作ったものが、芸術作品と呼ばれてもいいだけのものかどうかの判断として、もしも、ゴミ捨て場に飾られたとしたら・・・というのをチェック項目だとしている。手前味噌だが、僕の作品は、たとえどこに置いても、その場所に同化せず、屹立している自信だけはある。
そんな風に考えているからか、もしもコンセプトを語らなければ、作品が成立しないのならば、その作品は、ただの一過性のもので自立した完成度をもたない。なきゃ伝わらないなら、作品を作り直すべきだというのが僕の意見。
 
しかし、じゃあ普段、一切、だれとも作品について語らないのかというとそんなわけはないし、忘備録としてだれかと語ったことをちらほらとブログを書いてくのもいいだろうし、書いてくということは、いつか振り返った時に、数年前の自分と数年後の自分が語り合うようなことも、ブログを通してあるだろう。

いや、実際、僕自身、他の作家の方法論は興味あるし、だれかの参考になるならなるでいいじゃないかと気軽に考えることにする。

と前置きはこれくらいにして、本日の本題はサムネイル。サムネイルって聞き慣れないけど、親指のつめ ってのが原語のようで、ようは、それくらいの小さなメモ書きのこと。どっちかっていうとデザイン用語かなあ。ドローイングとかスケッチとか、ジャンルによって下絵のいい方が違ってて、使ってる方もよくわかんないのだと思う。なんとなくだけど、彫刻はドローイング、絵画はスケッチっていってるような気がするけど、気のせい?

ドローイングという言葉の場合は、下絵でありながらも、観賞作品として、あるいは販売目的で描いてる人も多いよね。
僕がサムネイルという言葉を使うのは、ドローイングクォリティですらないからかもしれない。あくまでも個人的なメモ、限りなく落書きに近いものだから。

スケッチブックなどに描いてた時期もあったが、今はもっぱら、コピー用紙をクリップに挟んでそれに描きなぐっている。基本的に、上着の右ポケットには、8つに折り畳まれたコピー用紙が2枚とボールペンが常に入っていて、電車の中とかで、ごにょごにょと筆を走らせている。時には歩きながら。。ええ、車を運転しながらってことはないですよ、たぶん?!

で、だいたい1作品に対して、まったく別のアイデアが3案生まれるまでは、けっして制作をしない。
残り2作品はボツにするのだけど、数年たって、また見直したりすると、ボツがむちゃおもろかったりもする。

で、メモ描きである以上、メモとして、それを見ながらブラッシュアップするのが常のはずだけど、ここのところが、ちょっと違う。メモでありながら、一度描いたものは、見ない。整理整頓できない性格なのでどっか行ってるってのもあながち外れちゃいないけど、一種の儀式をするんだ。
メモを見ずに白紙の上にあらたに同じ図像を描けるかどうか。

それでもすんなり描けるほど記憶の中で印象に残ってるかどうかのテストでもある。

不思議なことに、英単語とかの記憶力はさっぱりないのだけど、ものの形に関しては、一度見たら、覚えてしまえる。

もちろん、漢字や英単語の小テストじゃないんだから、メモと同じものを描くことが目的ではない。
もっといいアイデアをひねり出すことが目的だ。
白紙の上に描くから、隣にメモを置いて描くのと違って、修正や変更をちゅうちょなくできる。

こういうのを繰り返すと、何度変更しても、変更しきれないアイデアが残る。
それを採用する。

とまあそんなことをいいつつも、けっして僕の作品の全てをこのスタイルで生み出してるわけではない。タロットシリーズのように作り込んだ世界観を持つものだけだろう。

そう、そのタロットシリーズの制作を再開しようとしている。

そもそも、別にタロットカードの専門家でもなければ、占い師でもない僕が、本当の意味でのタロットカードを作れるわけがない。 あくまでもテーマであって、それはユングの元型論をタロットにあてはめることで、人にとっての普遍的な芸術の題材としてるってことだ。ならば、22枚という大アルカナの数字にこだわる必要はない。

むしろ、アルカナ=謎は、その枚数さえも謎のままでいいんじゃないか。

タロットの制作手法は,ポジフィルムでしかできない。
残念ながら、愛用してきたコダックのE100VSは、とっくに製造中止どころか、コダック自体、ポジフィルムから撤退した。なのでフジを使うけど、フジだって、いつまで作るかわからない。案外、数年で終わるかもしれない。

だったら、ポジフィルムがあるうちは、これを作り続けて、近い将来訪れるであろう、ポジフィルムの製造中止とともに、タロットシリーズの制作も終わらせてもいい。

その方が、謎めいてるし、伝説的じゃん!

ただ、ポジでしか撮影しない体制だとポジがなくなったら困るので、他のシリーズは、デジタルですすめておき、かつ、デジタルでタロットの後継シリーズってのも模索しておいた方がいいんだろね。

こんな風に、サムネイルレベルでではあっても、それなりに設計図を完成させてからじゃないと制作の手を動かす段階にすすめることができないタイプだったりもする。

ざっと現段階での構想含めて自作を振り返ると、
TAROTシリーズは、ファンタジーな舞台に、ファンタジーの人物が登場したもので、完全に虚構の想像上の世界だ。一方、OPERAシリーズは、 リアルな舞台に、ファンタジーな人物が登場した違和感がおもしろかったりするのだろう。
手法でいうと、大判フィルムで撮影し、アナログ合成で仕上げ、シノゴポジ上で完結したTAROTと、デジタルカメラで撮影しながらも、あえての一発撮りにこだわり、HDRでかっこよく決めたOPERAという違いがある。しかしながら、TAROTとOPERAは、アナログ×合成 と デジタル×一発撮りというわかりやすい比較は、たかが手法上のことにすぎず、本質としては、TAROTは、ファンタジー×ファンタジーであり、OPERAは、リアル×ファンタジーだ。(場所)×(人物)として。

じゃあ、こういう流れで、全体を俯瞰した場合、リアル× リアルってのも欲しくなってくる。
本来これが、写真らしい写真なんだろけどね。

 という考え方もあるが、通常、写真を分類するのは、被写体別だったりして、早い話が、人、物、風景、だ。TAROTもOPERAも、被写体別でいうと人だから、物と風景でなにか、と考えてもいいかもしれない。風景がそこ、 リアル×リアルになるのかなあ。
なんてかんじで悩んだりもする。

昔、PLフィルターによる偏光写真で、 カラフルな抽象写真を撮ってみたことがある。
このテクニックで、物を撮るのもいい。もうちょいたとえば、セロハンをちぎって、木版画風のイラストというか絵にしてもいいかもしれない。不思議なもので、TAROTは、表現ジャンルとして写真作品ではないような気が自分でもしているが、技法としては、写真である。素材もポジフィルムだし・・・。同じ用に、偏光写真も、写真だっていっても、きっと信じてもらえないんだろうな・・・CGにしか見えないんだろうけど、実は写真という光学的技法でなければできない表現。

TAROTは、表面的には、TAROTを題材にしつつも、無意識にある共有する元型のイメージなので、どうしても、なにを考えても、TAROTに帰結してしまう。じゃあ、偏光写真版TAROTってのもいいんじゃないかと思う一方で、もうちょい他の世界観にも旅してみたいなあとも思う訳だ。

今、なんとなくなんだけど、ポジフィルムの製造終了後に、TAROTの次は、ミクスドメディアなオブジェになるような気もしているし、偏光写真の物撮りシリーズは、純ファンタジーな気もする。こういう風に分類してく中で、リアル×リアル な世界観の作り方、また風景写真、って座席が空いていて、そこを埋めたいんだけど、なにかこううまく見つからないでいるかんじ。

ま、全体の分類も いいけど、まずは、目の前のTAROTシリーズをブラッシュアップしていかなきゃやね♪

米原敬太郎公式サイト→http://www.yoneharakeitaro.com/

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